滋賀県・大津市・比叡山延暦寺

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【 概 要 】−比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の創建は延暦7年、最澄が自ら彫り込んだ薬師如来像を安置し仏教興隆の祈願道場として開いたのが始まりと伝えられています。延暦7年には薬師堂、文殊堂、経蔵が造営され中心的な建物である薬師堂が3棟の中央にあったため、後に根本中堂と呼ばれるようになりました。当初は一乗止観院又は比叡山寺と呼ばれていましたが延暦12年に桓武天皇が京都に遷都すると比叡山が北東方向にあたる為、翌年には鬼門鎮護の霊場となり、さらに延暦25年には大乗戒壇が設立され天台宗が開宗、弘仁14年には「延暦寺」の勅号を賜わっています。以来、天皇や皇族、貴族など帰依したことで寺運が隆盛し、比叡山の山内には東塔、西塔、横川を中心に三塔十六谷に三千坊を擁する大寺となりました。良源、源信、良忍、法然、栄西、慈円、道元、親鸞、日蓮などの名僧を輩出しましたが円仁と円珍が同時期に輩出した為対立が起り、円珍は三井寺に入り長らく抗争が繰り返されました。中世に入ると、三井寺や本願寺との抗争や荘園など広大な寺領の管理の為次第に武装化するようになり比叡山の山内には数多くの僧兵を抱え、朝廷や幕府などにも強い影響力を持ちました。平安時代末期には、延暦寺の僧兵が日吉大社の神輿を担いで都の朝廷に強訴し、永享7年には室町幕府6代将軍足利義教と対立し、講義の為多くの僧侶が根本中堂に立て籠もり焼身自殺をする事件を起しています。戦国時代に入ると織田信長と対立し元亀2年に全山焼き討ちとなり多くの堂宇が焼失し、僧侶や僧兵、関係者などが斬殺されました。豊臣秀吉の政権になると再興が許され、多くの堂宇が再建、徳川家康もこの政策を引き継ぎ、3代将軍家光は根本中堂を再建しています。又、江戸時代前期の幕府に大きな影響力を持った大僧正天海は比叡山延暦寺の再興に力を入れると共に、江戸上野に東叡山寛永寺を創建し、日光輪王寺を再興しています。現在の比叡山延暦寺には豊臣秀吉が再興以来の堂宇(根本中堂:国宝)や数多くの寺宝を所有し、日本史上でも大きな影響力を持ったことなど大変貴重なことから「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
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